風化という言葉は嫌いです。

【ゆめ風応援歌】物語 Vol.20
《風化という言葉が嫌いです》 by 趙 博
【風化】とは『広辞苑』によれば「地表およびその近くの岩石が、空気・水などの物理的・化学的作用で次第にくずされること。比喩的に、心にきざまれたものが弱くなって行くこと」という意味だそうです。なるほど、岩石が風化すれば砂になって岩石の姿を止めません。でも、自然の摂理の中で物質として残るはずです。一方、「心に刻まれたものが弱くなっていく」風化は、忘却と同義に解釈されて「なにも残らない」、いや、何かが僅かに残っているのだが「それが何なのか」わからない、つまり、意味が剥奪された状態になるわけですね。厳密には「岩と心」でニュアンスが少し異なります。
僕が学生になった一九七五年ごろ、「被爆体験の風化」という言葉をよく聞きました。戦後三〇年、戦争のことも原爆のことも「みな忘れている」というわけです。僕はとても違和感を覚えました。「忘れているのではなく、その意味を問わない、あるいは歴史と現在を繋げないのだ」と反発しました。時間が経てばモノゴトが忘れ去られるのは、当たり前です。逆に、忘却という精神現象がなければ、人類は生を継いで今まで生存してこられなかったはずです。辛い・悲しい・怖い・酷い・非道い…経験が、その体験時の印象のまま、その強烈な衝撃がそのまま記憶の中に持続するなら、人間はとうてい生きていけません。時間的長短の差はあっても衝撃が徐々に和らぐから、僕らはまた新たな方向を見いだせるのです。これが「時間薬」で(もちろん「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」もありますが「忘却」とは別次元です)、僕の好きな日本語です。
十五年前の震災体験は、僕の中で本棚とステレオが倒れた音と衝撃として残っています。あの日、いつものように自分の部屋で寝ていたら、確実に下敷きになっていたはずです。それから数年間は「揺れ」に過敏になって、夜中に大型トラックが通っても起き出すことがよくありました。今はそれなりに「風化」していますが、僕ですらそうでしたから、被災した人々は如何ほどのショックだったろうかと、何度も何度も想像しました。
想像することを止めない限り、風化はありえません。それは、過去に拘泥する所業ではなく、痛みと悲しみの中から未来へ向かうという、ごくごく当たり前の人間的営為なのです。「風化」は、僕の嫌いな日本語です。(ゆめ風基金『ゆめごよみ風だより』No.49 より)