日々の喜怒哀楽を綴ります。

いのちの「質感」

動物が車に轢かれて死んでいるのを見ると、思わず目を逸らしたくなるのが人情だ。鳩、雀、蛇、猫、鼬、犬…なのに、これが、蝶、蝉、蜻蛉、蜂、蚯蚓の類になると、どうして死んだかの確認すらせずに、視線から自然に外れていく。
蚊や蠅ならわけもなく殺せるが、ゴキブリやムカデを退治するのには相当のエネルギーを要する。ひょっとすると、人間は「いのち」を大きさや重さで計ったり実感したりしているのではないか?
先日、大通の端でかなり大きな鼬の轢死体を見つけた。腹と口から内臓が出ていたが血まみれではなかったので、車に当たって即死した直後だったみたいだ。3キロくらいあったろうか、新聞紙にくるんで近くの公園まで運び、大きな楠の下に埋めた。それから、朝ランニングする度に楠に詣でながら「鼬は養分となって立派に木を育てているのだなぁ」と想いを巡らせている。因みにこの木の根っこには、これまでに我が家で死んだ猫と亀も埋まっている。
死後、何度も車が通って、煎餅か、はたまた影のような物体と化した死骸を目の当たりにすることもある。それは、しかし、果たして「死骸」と認識されるだろうか。死してもなお「いのち」を感じる境目は那辺にあるか…人間どもよ、貴様等は実のところ「いのち」を何時、何処で、如何様に感じ取っているのだ?-- 故・鼬クンに問われた次第である。

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