日々の喜怒哀楽を綴ります。

土佐稲荷神社

ファイル 957-1.jpg

地下鉄・千日前線「西長堀」駅の北側が「鰹座橋」交差点、西側すぐに「土佐稲荷神社」がある。この神社を含む一帯は、東側の「マンモスアパート(1)」や「西区民センター・こども文化センター」も含めて、土佐藩の大阪蔵屋敷だった。神社北側の「長堀通」は「長堀川」を埋め立てた道路で、長堀は1622(元和8)年に開削された運河。この開削工事が完工するのとほぼ同時期に土佐藩は蔵屋敷を建て、長堀川の両岸で土佐の特産物である鰹・和紙・材木などを商って大坂の町に運び、全国に流通させて莫大な利益を得るようになった。蔵屋敷の脇に架かる橋は「鰹座橋(土佐殿橋)」と呼ばれ、また、土佐の商人達が集まる「土佐座」が近かったことから「土佐堀川」の名称も生まれた。事ほど左様に、土佐藩は「天下の台所」大坂で、その存在の大きさを誇ったのである。「土佐稲荷神社」は、土佐藩経済の守護神として創建され、1717(享保2)年に本格的な社殿造営が行われて蔵屋敷の鎮守社となり、一般にも開放された。
時代は下って、幕末から明治維新。坂本龍馬暗殺後、海援隊の後を継ぐ形で、1870(明治3)年に「九十九商会」が発足、翌年、個人事業体となって岩崎弥太郎の所有となる。同時に、土佐藩屋敷も岩崎に譲渡され、土佐稲荷神社は九十九商会に引き継がれた。実は、当時藩邸は、鴻池など豪商の抵当に入っていて、九十九商会が借金返済を肩代わりした上で、藩邸の払下げを受けたのが真相だが…。境内には「岩崎家旧邸址」の石碑もある。
九十九商会は1873(明治6)年に「三菱商会」と改称され、今日の「三菱グループ」へと繋がっていく。土佐稲荷神社こそ「三菱グループ発祥の地」なだ。神社の紋は「純金の三菱スリーダイヤ」で、玉垣には三菱グループの名前しかない。毎年四月の初めに、三菱グループ各社の代表が集まり、三菱の発展を願う祈祷祭が行なわれている。なお、「堺事件(2)」の際に「二〇人切腹のくじ引き」が行われたのも、此処。財閥・政商・コンツェルン…資本と神社の密月時代が一四〇年も続いているなんて、ほんま、大阪らしおまんなぁ。

(1)1957(昭和32)年、旧日本住宅公団(現住宅都市整備公団)が建設した西長堀アパートの俗称。「西区のマンモス」とよばれて市民から長く愛された。入居者には、作家の司馬遼太郎や南海ホークスの野村克也など著名人も多く、話題になった。
(2)1868(慶応4)年、フランス領事たちが堺へと入ろうとして、土佐藩兵とフランス海軍の兵士との間で起こった事件。事件後の切腹で、藩士達が自分の腸引きちぎってフランス兵士たちに投げつけたというエピソードは有名。顛末は、森鴎外『堺事件』に詳しい。

トラックバック一覧

コメント一覧